海の音が聞こえる
海の音が聞こえる。
人が呑まれる時、波に拐われる心地になる。
私の好きな俳優さんが、自ら還ってしまった。
原因は?予兆は?周りの反応は?
身勝手な憶測が悲しみを踏み荒らし、足跡で汚れて見えなくなっていく。
貝殻を耳に当てた時のような音が聞こえた。
その音は昔の私を思い出させる。
私も、海に呑まれてしまおうと思った事がある。
いつだったかはっきり覚えていないし、原因も特になかった。
行き来を繰り返す波のように自然にそう思った。
海の音が聞こえていた。
首吊りは後片付けが大変そうだからやめておこうかな、樹海に行くなら他にも良いところがあるかな、飛び降りは巻き込む可能性があるから怖いな、練炭は失敗し易いみたいだからやめておこうかな、
とか。
結局ドアノブを使った首吊りに決めて、遺書を書いて、使用するためのシャツを探そうと立ち上がった所までで大体10分位だったと思う。
私が我に返ったのは、愛犬が勢いよく部屋に入ってきた時だった。
気がする。
あまりよく思い出せないが、犬を撫でている時、海の音は聞こえなくなっていた。
何かを貶して自分を慰める事を覚えた今の私に、海の音は聞こえない。
優しすぎる人は、自分に言い訳する自己愛が、他己愛の下敷になってしまっているんじゃないかな。
クシャッとした彼の笑顔を思うと、ただただ悲しい。
「死なない」 それがいかに難しいか、私は知っている。
彼は今、海の音を聞いているだろうか。